人はなぜ走るのか

三十五歳を過ぎた頃から、

自分の体力が

静かに、しかし確実に

目減りしていくのを感じるようになった。

それは突然電源が落ちるようなものではない。

古いラジオの音量つまみが、

誰にも触れられないまま

少しずつ左に回されていく。

そんな感じだった。

以前の僕は

朝から晩まで

わりと無理なく働くことができた。

フルスロットル。

もしそんな言葉が

自分の生活に当てはまるとしたら、

たぶんあの頃だった。

でも最近は

夕方になると

頭の中に薄い霧が立ちこめてくる。

やる気というものが

どこか遠くへ

歩いて行ってしまう。

慣れた作業なら

なんとかやり過ごせる。

けれど

少しでも創造性を求められると

途端に腰が重くなる。

集中力は長く続かない。

気持ちも

途中で息切れする。

なぜだろう、と

僕は考えた。

精神力というものは

それだけで

存在できるのだろうか。

たぶん

違う。

精神は

肉体という器を通してしか

存在できない。

器が小さくなれば

そこに注げる水の量も

減っていく。

健全な精神は

健全な肉体に宿る。

ずいぶん使い古された言葉だけれど、

案外

その通りなのかもしれない

そう考えたとき

僕は精神の衰えを

肉体の衰えとして

受け止めることにした。

そして

器そのものを

もう一度整えようと思った。

二十代の後半

僕はよく走っていた。

理由は

正直あまり覚えていない。

ただ

少しだけ

刺激が欲しかったのかもしれない

久しぶりに走ったとき

僕は奇妙な喜びを感じた。

この社会は

どこか曖昧で

手応えがない。

人は本音を隠し

空気を読み

ふわふわした約束事の中で

仕事をする。

そこでは時々

自分が本当に

ここに存在しているのか

わからなくなる。

僕はそれが

あまり得意じゃない。

だから

疑いようのない感情に

触れたかった。

痛いとか

苦しいとか

きついとか。

あるいは

楽しいとか

嬉しいとか。

どんな感情でもいい。

ただ

「これは本物だ」と

言い切れる感覚。

ランニングは

その答えのひとつだった。

最初の一キロは

本当に苦しかった。

息は切れ

肺は悲鳴をあげ

脚は重かった。

それでも

僕は嬉しかった。

苦しい。

その感情が

確かにそこにあった。

僕はここにいて

確かに生きている。

そう思えた。

それだけで

十分だった。

人は

失ってから

初めて気づく。

精神の衰えを感じて

ようやく

体力のありがたさを知る。

だから今

僕はもう一度

走ろうとしている。

失った体力を

取り戻すためというより、

あのとき確かにあった

「生きている感じ」に

もう一度触れるために。